ブランジェリー ラ・ターブル – 新潟市のパン屋・カフェ

ラ・ターブルが始まるまで

オープン当初のテーブル写真

私が子供の頃、誕生日になると招き招かれ誕生日会をやっていたことをよく覚えております。その誕生日会では、母がこねてくれたパン生地が必ず用意されていました。そのパン生地をみんなでいろいろな形にし、母に焼いてもらってみんなで食べる。そのパンが実においしかったこと。今思えば、ここが私のパンづくりの原点だったかなと思います。

その後、製粉会社を営む父と、料理家の母の影響もあったのでしょうか。高校生の時に料理を作るアルバイトを始めます。そこでたくさんの人と出会い、料理の楽しさ、面白さを経験します。この頃から料理の世界、料理の楽しさに引き込まれていったように思います。

料理の世界へ

学校を卒業後、まず私は日本料理店に入社します。そこには素晴らしい食材があるのはもちろん、料理に向き合う姿勢、先輩方からいただいた言葉……。たくさんのことを経験し、学ばせていただきました。
その時いただいた言葉のひとつに、「人間は誰でも欲があるが、母が子に対する愛情、子が親を想う心情には欲がない。人をもてなす「心」は欲を無くして始めて可能になる。料理の一期一会の心はそのようなものではないかと思う。」という言葉がありました。この言葉が私の料理に対する姿勢の元となっております。
この日本料理店での経験は何にも代えられない、とても大切な時間でありました。

日本料理店での修行
日本料理店での修行
日本料理店での修行

日本料理店を退社後、兄がいたロンドンに渡ります。とある日、兄が「パリに行ってみよう!」というので一緒に行ってみました。
そこで驚いたのが、パリの食の美味しさ。クロワッサンがおいしい!フランスパンおいしい!!適当に入ったお惣菜屋さんの惣菜がうまい!!!食べる度にひたすら感動する中、漠然とではありますが、この国の食をもっと知りたい、そう感じるようになりました。

父の想いを引き継ぐため

しかしパリからロンドンに戻って数ケ月後くらいでしょうか、父の病気が発覚します。急いで新潟に戻りましたが、間に合わず。そこで決めました。“父の愛した小麦粉でおいしいパンを作り、大好きな新潟の皆様に食べて喜んでいただこう”、と。

私は日本に戻り、パン作りを学ぶべく、まずは東京のパン屋さんの門を叩き、パン作りの修行を始めました。そこでの経験や出会い、繋がりは自分が成長させていただくうえでとても充実した時間でした。

その後、以前味わったあの美味しいフランスのパンを研究してみたく、再びパリに向かいます。以前パリでお世話になった由美子さん、ベルナードパパ、フランソワくん、エミールくんファミリー宅に1年弱ほど居候させていただきました。

そこにはベルナードパパが買ってくる自慢のパン、由美子さんのとても美味しいお料理、そしてパンのある家庭の食卓……。パリの食卓をたくさん学び、経験させていただきました。いつも笑顔がいっぱいの、家庭の食卓がそこにありました。

たまにお客様を招いて小さなホームパーティーを開くことがあるのですが、私がそこで少ない経験ながら日本の料理を作ると、みんなとても喜んでくれました。日本料理店での経験に感謝しつつ、食を通して笑顔になっていただく喜び、幸せになる気持ちをとっても強く感じました。パリでの生活、一緒にいさせてもらったあの時間は最高でした。

2008年に再会したベルナードパパ、フランソワくん、エミールくん
パリの食卓

またパリにいる間、とにかく私はパン屋をたくさん歩いて回り、たくさんパンを食べました。もちろん味は店それぞれですが、どのパン屋でも共通で感じたのは、フランスのパン屋である“ブランジェリー”というこの名前、日本でいえば家庭にある炊飯ジャーのようなものなのかなあと。必ず食卓にある、家庭を笑顔にする大切なものなんだなと、私は強く感じました。

パリのエッフェル塔
パリの市場
パリのブランジェリー

新潟で新たな出発

父、母から教えてもらい、そしてパリでも同じように存在した、家族でテーブルを囲んで団らんをする時間、笑顔がどんどん生まれていく空間。そんな素敵な空間を作るお手伝いができたら、こんなに幸せなことはない。そんな役割を担えるパン屋“ブランジェリー”を作るべく、私は新潟に戻ります。
そして2001年3月23日、「食卓」という意味を込めた“la table ラ・ターブル”をスタートさせていただきました。

今までのすべての出会いと、すべての繋がり、いただいたたくさんの経験。そしてオープンしてから出会ったスタッフへの感謝と、そのスタッフと共に同じ想いを持って、今日も家族の笑顔を作るお手伝いをいたします。

オープン当初のラ・ターブル
佐藤淳子のメッセージ・開店祝いメッセージ